菅内閣発足

 午前0時半まえ、曇天。気温22度ほど。2、3日まえよりの頭皮痛が頭痛なり、肩こり、腰のこりが酷く、閉口している。軀全体の血行不良を感じる。だんだん秋にむかっているのかもしれない。肩を手で揉むと、一瞬、爽快になるが、すぐに頭脳はぼんやりしてしまう。

 菅内閣が始まった。ネット記事を読むと、菅氏に関して肯定的な記事と否定的な記事は9対1ぐらいの感じであり、早くもメディア操作をしているのかもしれないと思う。しかし、記事を読み込んでゆくと、菅氏の来歴や思想がだんだん判ってきて、もしかすると、今までにない良い内閣になるのではと錯覚してしまう。安倍内閣では、官房長官としてさんざん隠蔽、改竄の限りをつくしてきたので、今更良い内閣は期待できるはずはないわけである。併し、前首相のみを悪者にして、みそぎは出来たものとしたい気持ちは国民のなかにもあるのかもしれない。併し、いまコロナ禍の真っ最中であるので、いろいろ過去の不祥事をいじっているときでもない。

 コロナ禍であるが、このところ政府発表や東京都の発表に緊張感が無くなった。併し、依然として重症者数は高目の横ばいであり、国民に緊張感がなく、無用に会食したりすると、すぐに第1波のときのように重症者数は増えて医療崩壊の危機をむかえてしまうだろう。たしかに、コロナは、もう飽きた感じがある。もう、コロナは無かったことにして、昔のように飲み会をして騒ぎたい気もする。が、コロナは前と変わらず、威力も落ちていないはずである。ウイルスは無慈悲である。

 ちょっと気になった記事があったので書いておきたい。70代の作家が、あたかも達観したように、または諦観したようにコロナ禍について書いていたが、自分は70代まで生きて来たから、いつコロナで死んでもかまわないそうであるが、若者は今を生きてゆくしかなく、そのなかにはコロナで命を落とす者がいるはずであるが、そのことには思いがいっていないと思った。若者は、まだまだ、これからを生きていかないと人生を味わえないのである。

 私は、50代半ばの者であるが、コロナ禍にあって達観などできず、また諦観もしていない。なんとしても生き残りたいと念じている。生きることに執着しないで、なんの人生であろうか、と思う。人生は「執着」そのものである。70代の作家は、どこら辺を生きているのか、私には判らない。

 テレビを見ていたら、年金生活を送り、時間を持て余している人たちが出ていた。仲間うちの軽口だろうが「年金どろぼう」という言葉が出ていて、私は、はっ、とした。「年金どろぼう」とは、何であろうか、と思った。年金は、年金を納めた者が受け取れる制度であり、不正はないはずであるが「年金どろぼう」とは穏やかではない。年金を貰っている者同士が軽口を言い合っていたが、今の年金制度に、受給者たちは若い世代の納付者に対する「どろぼう感」「食い逃げ感」があり、それで出た言葉だと解釈できた。

 年金制度に不備があるとしたら、漫然と年金を受け取っているべきではなく、年金を貰っている側が毅然とした態度に出るべきであろう。出来にくいことではあるが、年金は全返納、もしくは一部を返納すべきなのかもしれない。

 社会の年長者として若者たちに対して責任ある態度を示すべきである。100歳が8万人を超えた。めでたい、超高齢化社会と騒いで、長寿のみを手放しで喜んでいるべきではないはずである。そう遠くないときに、年金は破綻し、廃止のときがくるはずである。座して、事態の悪化を待つべきではない。今こそ年金制度を停止して、新たな制度をつくり上げるときである。