不確実な世界観

 午後5時まえ、晴天。気温32度。自転車で郵便局へ行くと、外気温度と室内温度のちがいで気持ちがわるくなる。

 去年の秋頃、私は、本来自分の嗜好ではないことをした。好きではない、はっきり嫌いと言っていい小展覧会へ、ふらっと、入った。今では、それが、すべての間違いの始まりだったような気がしている。私たちの身の上に信じられないことが起きた。そして、コロナ禍の出現である。展覧会に行ってから、私にとって不都合な状況の連続である。そして、苦しく不義理なことをしなければならないことであった。

 私の場合、迂闊な、自分の能力以上のことをすると、自分にとって良い目がでることがあった。それはただの思い込みなのかもしれないが、兎に角、そうやって、すこしずつ発展してきたと思っている。併し、迂闊なことをして良い目がでるのは、自分の嗜好に沿ったことをした場合に限られていたようである。今の状況は、はっきり凶事である。すこしも良いことはない。

 人生は一本の道の上を走っているようなものである、と表現することがある。道はレールなのかもしれないが、本来軌道修正が出来にくいものである。私は、人生は一本の道の上を、自分と云う魂の車が走っていると考える。併し、ギアチェンジするときに、歯車に無理をさせると、歯車は軋みながら道を外れ、途方もない所に着地することがある。今回は、私は悪い迂闊をして、途方もない所に来てしまった気がしている。ほんとうなら、穏やかな日常が続いていたはずであるが、今は地獄、煉獄のような具合である。

 人生の道は、一本だけではないのかもしれない。道の上にいて、道を眺めると、自分の道しか見えない。併し、道の上空から俯瞰すると、道は何本も並行して走り、幾通りもの人生があるのかもしれない。元の道に戻りたいと思うが、どうすればいいのか判らない。また、迂闊なことをすればよいのかもしれないが、どんな迂闊が効果的であるのかが判らない。

 私は、妙な話をしているのかもしれない。コロナ禍で神経がやられてしまった、と言われるかもしれない。併し、大なり小なり、人は変なものである。他人がまともに見えてきたら、そろそろ自分がおかしくなっているのかもしれない。