障碍者と優性思想

 午後4時ごろ、晴天。気温34度。今日も暑い。エアコンの冷房なしでは生きていけない。文明の利器の有難さをしみじみ実感する。

 ネットの記事で気になった記述があったので書きたいと思う。

 「避妊や中絶が女性(母親)の権利であるように、その妊娠を継続するかどうか、胎児の遺伝負因を確認してから決めるのは、母親の当然の権利である。胎児に独自の命があると考えるのは自由だが、私は胎児は誕生するまでは母親の臓器の一部であると考える」とあった。私が驚いたのは「胎児は臓器」のところである。胎児は、母体保護法により妊娠中絶が認められる妊娠22週未満ならば「臓器」であり、それを過ぎると「人間」になる。「人間」は殺せないが、「臓器」は容易に殺せるわけだ。

 私は、特殊な考え方を持っているのかもしれない。「人間」とは肉体ではなく、魂であると思っているのだ。そして、魂は肉体を離れても存在していると思っている。魂は、ときに肉体だけでなく、岩石にも樹木にも、犬猫の動物にも、ちいさな虫にすら宿ることがあると思っている。それを熱狂的に信じているわけではないが、なんとなく経験的に、そんな気がしているのである。

 「臓器」に、いつ魂が宿るのかは判らない。妊娠して、すぐなのか、または妊娠22週頃なのか、医者でも知っている者はおるまい。併し、記事は「母親の当然の権利」と主張する。私は、中国の春秋戦国時代のころに横行した「生命与奪の大権」を想起して戦慄を抑えられないのである。「生命与奪の大権」は、今の妊娠中絶どころではなく、成人した男女でも、老人女子供でも、罪なくして随時王権をもって殺したり、生かしたりしていたわけである。他人の命は王様のものであった。

 「胎児の遺伝負因を確認してから決めるのは、母親の当然の権利である」と記事は言う。胎児の段階で「遺伝負因」を確認し、負因があれば中絶して殺す。

 優性思想は、ナチスドイツで横行した。ナチスの「T4作戦」で20万人以上の障碍者などが殺されたのである。また、記事は「優生思想の何が悪いのか。良き生と悪しき生がある、と考えるのはなぜ問題なのか。より良い人生を望み、家族にも社会にも遺伝性の疾患で苦しむ人が減ることを願い、悪い遺伝子を淘汰して国民全体の健康レベル向上を目指すことの、一体どこが間違っているのか」と言う。

 優性思想の欠陥は、本人が、より良い人生を歩もうとすることを他人が積極的に阻もうとするところに問題があると思う。つまり、優性とは他人の趣味嗜好、価値観の押しつけに他ならない、と思う。手が一本なくとも、足が一本なくとも、不便な生活をして効率的でなくとも、ほっといて欲しいわけだ。目が見えなくても、頭がわるくても、出来ることはあるわけである。下手は下手なりに楽しくやっているのである。

 生まれるまえに、人生の落伍者の烙印を押されて、闇に葬られる。たしかに、この世は苛酷である。まるっきり能力がないと生きてゆけない。障碍者では恥の多い人生の連続である。もっとも、私は恥だとは思っていないが、他人は恥だと言う。そして、他人は自分の価値観を押しつけてくる。私は、どちらかと言えば落伍者の部類であり、他人の言う人生の勝者にはなれない。併し、人生の勝者は正義ではない気がしている。この思いつきは、私を束縛するが、勝者を目指すよりは心が安らかであることは確かである。