「走る者たち」へ

 午後1時半すぎ、晴天。気温32度。外は炎天下である。暑すぎて外に出れない。

 昨日、午後8時半ごろ、運動不足解消のため散歩に出た。早稲田通りの歩道に出て、東に向かって歩き、阿佐ヶ谷北6の交差点で折り返して、早稲田通りを西に向かって歩く。そして、スーパーマーケットサミットで買い物をして、帰宅の途につく。買い物袋をさげ、しばらく歩くと、なにやら背後から迫るものがある、と、思うと、すぐに私を追い越して、走っていった。まったく、一瞬の出来事であったが、たしかに若い男性であった。街路ランナーである。マラソン選手のように息を荒くして走っていった。当然、マスクはしていない。私は一途に、男性が健康であることを願わずにはいられない。あの呼吸では、室外とは言え、近くにいる者が男性の排気を吸わずにはおれまい。

 莫迦莫迦しい話である。他人の健康が自分の健康と直結しているのである。街路ランナーは自分の体脂肪率を気にして走っているのだろうが、他人からみれば、どうでもいい話である。今は脂肪を気にしているときではない。互いに、他人の命に配慮するときである。自分がコロナ感染者でないと、どうして言えるのか。想像をめぐらして、考えるときである。なにを守り、なんの為に生きてゆくのかをである。

 街路ランナーには、加害者としての自覚がない。自分は感染していないと決め込んで走っている。しかし、実際は、街路ランナーのなかには確実に感染者がおり、そして、今日も他人を感染させているのである。この事実から目を逸らしてはならない。マスクをせず走る街路ランナーは加害者である。感染させていない街路ランナーでも、近くを歩く者にとっては、マスクなしで走る街路ランナーと云うだけで脅威である。そして、その存在は恐怖以外のなにものでもない。私からみると、手に刃物を持って振り回している者と同様に映る。たとえ、その刃物が私に危害を加える可能性が低くても、何割かの可能性で刃物が刺さると思うだけで恐ろしい。そして、マスクをしない街路ランナーの無遠慮が悲しい。他人を顧みない視線が淋しい。

 勿論、私は社会全体に落胆はしない。自然災害にたいしてボランティアに出ようとする人たちもいるのである。自己犠牲を前提にした芸術、社会活動もある。

 街路ランナーは、いま一度、立ち止って考えて欲しい。ほんとうに今すべきことは何かということを。