去年の日記

 午後1時半前、気温5〜8度。エアコンの暖房を入れて室内温度を16度にしてあるので、部屋のなかに居れば寒くはない。併し、襖をあけて廊下に出たりすると、いけない。寒さで足元からぞくぞくしてくる。1月4日に三島に来て、今日で8日目になる。こちらに来ても仕事の道具と材料は持参しているので、不満に思うことは少ない。私が居る場所が変わるだけとも言える。すると、私が東京に居る意味とはなんだろうかと考える。

▲三島の四畳半の部屋は底冷えがするので、炬燵を用意した。
 今に不足はないような錯覚に落ちているので、過去の日記を読んで参考にしてみる。すると、去年の、1月3日の日記の記述に「すべての作業を終えて、手許に版下原稿が上がるのは、早くても3ヶ月以降の4月すぎである。」とある。これは木版漫画「羅生門」の制作のことである。併し、4月は、2017年の4月のことで、とうに過ぎている。2017年の1月の時点では、介護が、遠距離介護がどれほど凄まじいものかと云う認識がなかったらしい。2017年だけにかぎっても、東京から三島へ行った回数は、1月11日に行ったのを始めとして、次に6月24日から12月14日までの間に計8回行き、滞在日数は69日間にもなる。勿論、東京に居ても介護関係の手続きやら粗大ごみの回収手続きなどで忙しい。まさに介護に忙殺されている。
 藝術は、絵画制作は、私にとっては人生、生命そのものであるが、それを薙ぎ払ってしまう介護とは一体なにものであろうかと思う。
 介護をしている人たちは自分の人生を犠牲にしていることを意に介さない、もしくは犠牲になっていることを気にしないようにしている。そして、犠牲になっていることを我慢している、などだろう。併し、我慢しないで介護をするには、どうすればよいのだろうか。
 納得して介護ができればよいが、納得できず無理やり介護をせねばならぬ場合はどうなるか。軋轢は事件、事故を生む。それから介護者の責任放棄、逃亡などだろう。穏やかでないがネットの記事でもそう云うものは散見できる。
 老人介護は、こどもの養育の過程の逆をゆくらしい。こどもは、だんだん認識力が高まってゆくが、老人は認識力が減退してゆく。こどもは、段々出来ることが増えてゆくが、老人は出来ることが減ってゆく。こどもの終点は、成長、成人である。ひとりで生きてゆける身体になることである。老人の終点は、死である。そして、宗教行事などで生き残っている者たちの手を煩わせることである。
 こどもの養育と老人介護の決定的な相違点は、こどもの場合は、大多数の養育者は本人の任意である点で、老人の場合は、介護者の任意でない点である。親になることは自分で決められるが、子になることは自分で決められない点である。もっとも、親にしろ子にしろ絶縁して養育しない介護しない者たちは多い。