東京に帰還2

 午後6時半前、曇天。気温摂氏10度〜21度。昨日、三島から東京に帰還した。今回は、10月27日から4日間の滞在予定であったが、往診が、また11月1日に決まり、急遽滞在を6日間に延長した。次の三島行きは、11月15日の予定である。ひと月に二度の帰郷は、経済的には殆んど自殺行為で、帰郷の出費は少なくとも3万円以上である。この調子でゆくと、介護費用や往診料金を含めると、ひと月に6万円ほどは掛り、半年だと36万円、一年だと72万円にもなる。介護離職状態のところにきて、この経費では破産は遠くない。
 どうしても介護の話題になると話が暗くなるが、そもそも介護には明るい要素がないので、仕方がない。介護は、結局のところ老人乃至病人が死と云う終末にむかっているわけで、老人または病人ともに家族の者も明るい気持ちになれるわけがない。死にゆく者がいる家にいて希望は持てない。では、どう云う心もちでいればよいのだろうか。
 私と父は気持ちの接点がなく、かろうじて私が折れる形で今を接しているが、34年前に、気持ちのなかで父と絶縁していて、併し、私は最後の家族の一員としての役割を果たそうと思っている。それは、父が昔そうしてきたように、私もそうしようと思う。たとえ意に沿わない相手にも、一応の事を無理にもするように、それに習って行おうと思う。それが良いことなのか、どうなのか判らないが丸呑みにしておこなう。それをしないと家族の形が失われてゆく。
 現代の日本の介護現場では、老人の寿命を、別の誰かが決めていると云う事実はどう云うことであろうか。老人(もしくは病人)の認知機能が低下して、物事が判断できなくなると他人が寿命を決めている。家族にとって都合がわるい老人の寿命は短くなっているらしい。そう云うことが、実際にできるようである。なんだか恣意的で、恐ろしい世界が展開されているようだが、併し、介護現場では淡々とおこなわれているのだろう。この世は、所詮ひとの思いのぶつかり合いの場所だから、当然と言えば、当然だろう。併し、私の背筋は、ひとり寒くなっている。