神龍特別攻撃隊

 午後1時半まえ、晴天。気温35度。浜松市では、今日、最高気温が41.1度を記録し、日本歴代最高気温1位になった。以前、熊谷でも同気温を記録していたが、兎に角、暑いことは、暑い。軀が蒸発しそうである。

 8月15日の、終戦の日を過ぎた。75年前の今頃は、終戦をむかえて、日本人のひとり一人の落胆と、慚愧と、開放感で日本中が満たされ、そして、軍隊は解散となった。

 8月15日以前は、日本人の誰もが決死の思いを抱いていた。日本本土決戦に備えて、大本営は東京から長野松代に移転が決まっていたし、天皇も松代へ行くことになっていた。零戦などの戦闘機による特攻や回天と云う人間魚雷などによる特攻はよく知られているが、伏龍特別攻撃隊神龍特別攻撃隊のことは、ほとんど伝えられていない。伏龍のことは、数冊書物が刊行されて知られているが、神龍のことは、まったく伝わっていないと言っていい。

 何故、今ここで、私が神龍特別攻撃隊のことを書こうかと思ったのは、今年は、私の父の三回忌をむかえ、いろいろと思い出すこともあり、それから、私の記憶も、気力もいつまで持つが判らないこともあって、書こうと思ったのである。実は、父は、父も知らないところで神龍特別攻撃隊に関わっていたのではないかと云う疑念を私は持ったのである。

 終戦の年に父は15歳であった。国民義勇戦闘隊員として昭和20年6月22日には兵隊とおなじ扱いを受け、実際、少年兵として飛行訓練の体操やグライダー飛行機に搭乗した。私も、話を聞いた当時は別段関心もなかったが、あるとき、特攻兵器を研究していた際に、神龍の記述をみつけ、父の話の内容との一致を見出し、名状し難い気持ち悪さを感じた。父も特攻兵器の一部にされていた、と云う気持ちの悪い実感である。

 神龍特別攻撃機は、木製の機体にキャンバス布を張り、火薬ロケットを推進力として100キロ爆弾を搭載していた。これを美津濃グライダー製作所が作った。後の、運動具のミズノである。

 体当たりの無謀な、作戦とも言えない代物であったが、終戦がなければ飛行機は生産されていた。本土決戦では、敵戦車などを攻撃目標にしていたようだが、戦果は期待できないと思う。

 沖縄戦は、日本本土とちがい多くの少年兵が死んでいった。父とおなじ年頃の少年たちである。鉄血勤皇隊は14歳から16歳の少年たちで構成された兵隊で、飛行機でも潜水艦でもない裸の特攻をさせられたのである。木製の箱につめた爆薬を抱えて、敵戦車に駆け込んで行く。そして、自爆して死ぬのであった。それを実際にやった。

 私は、戦争を賛美しない。殴るほうが、悪い。殴られるほうは、わるくない。そう云うことにしたい。人を傷つける者を肯定すると、それはそのまま地獄道である。併し、爆弾を抱えて、突っ込んでいった少年を、そのまま「悪」と云うことには出来にくいのも私の気持ちである。