不寛容の時代

 午前0時前、曇天。気温1〜11度。夜になると、めっきり寒い。三島の家の中の片付けは着々と進んでいる。併し、やはり、この作業はマイナスからゼロにむかうだけのもので、報酬はなく、感謝もされず、むしろ嫌がられ謗られたりするので遣り切れない。だれがこの立場を受け持ってもこう云う感慨に陥ると思う。今はただ早くこの状況が解消されることを祈るばかりである。
 近頃は、さまざまな業者の人たちと接する機会が多くあり、その折、携帯電話の番号は何?と訊かれることがある。
 私は今までに一度も携帯電話を持ったことがないが、それはおもに固定電話があるのに別にもうひとつ電話を持つことはないだろうといった思いからであるが、大多数の人たちは携帯電話を持つことを疑問に思っていないようである。携帯電話の所有者は、もしかすると固定電話を持っていないのかもしれないが、併し、固定電話か携帯電話かのいずれかを選択せよと言われたら、私は固定電話を選択する。私にとって電話とは外部との扉であり、扉は簡単には開けないものにしたい。特に不快なのは、その扉を無遠慮に開けてくるセールス、営業の類の通話で、眠っているときに、その電話の音で起こされたりしたら不愉快にならざろうえない。
 そう云うわけで、私にとっては扉である電話は家のなかに置いておくにかぎるのである。扉を持ち歩くなど考えも及ばない。併し、世の中は奇特な人たちばかりで構成されているらしく、扉を持ち歩いている人ばかりである。
 今の世の中、不寛容であるといわれて久しい。不寛容の原因はいそぐ心、せっかちな心が元ではないかと考えている。いそぐ心、せっかちな心をつくりだしているのは、機械化された世の中、利便性を追求しすぎた世の中に原因があるのではないだろうか。特に携帯電話の利便性は人々の心を蝕んでいる気がする。企業が利益を上げたいだけで、その他の弊害を顧慮せずにきた結果が不寛容の時代をまねいたと思う。
 携帯電話は、一見便利のようで、結局人々の行動を監視、制約をまねいている。併し、利用者にとっても他者との繋がりを携帯電話の存在で監視、制約できると云う幻想で充足できる陥穽がある。