時事放談2023②

 午前11時半すぎ、曇天。本日の右籾の最高気温31度。昨日の36度にくらべて、なんと過ごしやすいことか。涼しいので、午前中にテラス際にある芝の雑草取りをした。

 タレントのryuchellさんが昨日の午後、亡くなった。「毒親」の記事を書いていたあとの速報だったので、なんだかいろいろと考えさせられた。ryuchellさんは懊悩の末、自殺されたと思う。たいへん痛ましい出来事であり、謹んでお悔みを申し上げたい。また併し、残された5歳の男児は如何に思うか、である。残された奥さんも無残である。ryuchellさんは「毒親」であるのか、ないのか。狭義では「毒親」ではないかもしれない。子供から見たら「身勝手な親」になるのか、それとも「傷ついた親」「可哀想な親」になるのか。つまり、当事者の子供にしか判らないことである。

 「毒親」は、最近出来た言葉ではないことを知った。1989年頃というから、もう30年以上は経過している。もっとも、「毒親」の存在は言葉が出来るまえから、大昔から存在しており、幾多の子供たちを悩ませてきたことだろう。しっかりとした型にはまった「毒親」でなくとも、「近似の毒親」であれば充分子供にとっては迷惑な話である。では「近似の毒親」でない親とは誰のことであるのか、である。親は、常に品行方正で、責任感のあることが求められるが、そう云う親は実在しているのか、である。「立派な親」は100パーセント立派でなくとも、90パーセントならいいのか、80パーセントならいいのか、この事は、まだしっかりと議論が尽くされていないようである。「立派な親」を数値化して、不合格なら子供がつくれない、子供を育てることが出来ない制度が必要である。こう書くと、なにやら近未来小説のデストピア物のようであるが、児童ポルノ規制法を作ったように、子供に関しても、もっと踏み込んだ議論が必要であると思う。