時事放談2023①

 午後1時半すぎ、晴天。本日の右籾の最高気温36度。今はまだ、そこまでの高温にはなっていない。併し、すでに陽射しは、肌に痛いほどだ。

 テレビを見ても、ネット記事を読んでも、最近は「毒親」関連の記事が多い。コロナ禍のなか親子で自宅に籠る機会が増えたことによるものか、または仔細漏れなく情報が出てきたためか、兎に角、「毒親」関連の記事を目にする機会は増えた。

 私には、子供がいないから私自身は「毒親」ではないが、もし私に今の生活レベルで子供がいたとすれば、子供からは「毒親」と指弾されかねない。もっとも、私は自分のことを優先した結果、子供がいない生活であるので、子供をつくらない選択をした時点で私は「毒親」の誹りをのがれたとも言えた。私に子供がいない状況は、私による人生への熟慮の結果に他ならない。

 私は「毒親」と指弾されている親たちは、自分の人生に対する熟慮がたらぬ為だと言いたい。「毒親」は、もともと自分自身の生活も満足に送れない低知能者、性格破綻者、精神病者、生活不能者である。勿論、高知能者でも人生への展望が低ければ生活は不能になり、破綻するかもしれない。

 子供からすると「毒親」が親であることと、子供自身が「毒親」の遺伝を受け継いでいる可能性のある事実は、子供を絶望の淵に落とすのに充分な要素である。

 極論を言うと、低知能者、性格破綻者、精神病者、生活不能者は子供をつくるべきではない。低いIQの者、激怒しやすい、暴力的な性格の者、頭の狂った、筋の通らぬことを言う者、だらしのない生活から抜けられぬ者、それから、反社会的勢力に属する「悪意」の者は、子供つくるべきではないと言いたい。もし、それらの者たちが無制限に子供つくると、世の中は乱れ、平和安寧は遠く、争乱の巷と化すだろう。また、それらの者たちが子供をつくらないとしても、やはり新たな争乱が勃発するかもしれない。

 それから、つくろうとしなくとも生まれてくる子供もいる。性的被害に遭った不運な女性たちの存在も一定数いるらしい。できてしまったら妊娠中絶をすればよいが、それすらも出来ない境遇の女性もいる。子供をつくるべきではないと言ったが、つくろうと思って出来た子供ではない子供もいる。

 新宿歌舞伎町にあるトー横では「毒親」から逃れてきた子供たちがたむろしていた。なかには生活費目的で売春をしている少女もいた。家に居場所がなく、児童施設にも居場所がないとしたら子供たちは何処にいればいいのだろうか。

 私も、父親の激怒しやすい性格から逃れるために、あてもなく19歳で東京に出てきた。父親は所謂、性格破綻者の一人であったと思う。私の上京は気分的には家出に近いものであった。私には両親はいたが、両親は私に一切の支援をせずに私を東京に送り出した。上京するにあたって私は半年間アルバイト仕事をして転居資金を貯めた。「毒親」とまでは言えないが、私にとっては良い父親、両親ではなかった。だから「毒親」の記事に接すると、どうしても思い出して振り返ってしまう。

 私が積極的に子供をつくらないと云う選択をしたのは父親の存在が大きかったかもしれない。父親は自分の欲求を後回しにして子供に捧げる気持ちは持てなかったのだろうと思う。私も子供に対して、実際には私には子供はいないが、おなじような気持ちであるので父親の気持ちが判らないでもない。私の答えは、結局のところ、私は生まれてこなければよかった、と云う自己否定に帰着するかもしれない。私は、私を再生産しないわけである。

 生まれてしまった場合は、死ぬよりは、生きなければならない、と云う難題に挑まなければならない。それが、今のところ私の持論である。やはり「死にたくないから生きている」だけである。