自由について②

 午後5時すぎ、曇天。気温35度。早朝からエアコンの冷房をつけっぱなしにしていて、外の暑さを知らない。

 ロシアのよこに位置するベラルーシでは、大統領選挙でルカシェンコ氏が6選を果たし、それに抗議する民衆数千人が「人間の鎖」をつくった。どこの国でも、長期政権になると強権的になるようで、ロシアでも中国でも、そして、日本でも良いことにはならない気がする。私は、不勉強でよくは知らないが、アフリカでは長期政権どころか王様のような支配者、政権もあるようで、いつになったら全地球で「自由」を実感することができるのか判らないと嘆息する。

 自由とは、泣いている人を笑顔にすることである。泣いている人の話を聞くことは大切なことである。そう思えない人は心の病気である。心の病気は治さなければならない。放置してはいけない。放置しない仕組みを社会のなかでつくらないといけないと思う。

 泣いている人を放置しない。問題を一緒に解決する。お金が無いと泣いていたら、お金を与える。仕事がないと言っていたら、仕事を与える。家が無いと言ったら、家を与え、ごはんが無いと言ったら、ごはんを与える。

 夢が無いと言っていたら、一緒に夢を考える。寄り添う。人生とは、生きるとは、面倒なことの連続である。しかし、生きてゆく以上、面倒を引き受けなければならない。

 自由とは、独占しないことである。起きて半畳、寝て一畳である。そんなに場所はとらない。ごはんも、そんなに、たくさんは食べられない。一日一食で充分である。しかし、私は1.5食から1.8食ほどたべているので、過食である。余分に食べて、どこかの、だれかの分を食べている気もする。

 お金は、いらない。使う分だけあればいい。しかし、世の中は、お金をたくさん欲しがる。私は、お金は不要だと思っているが、慾張りな人たちは、もっと、もっと、と欲しがる。なんやかやと言って、お金を取り上げてゆく。保険料だと言い、年金だと言い、税金だと言い、お金を取り上げてゆく。言う通りお金を渡してしまうと、まったくごはんが食べられなくなる。借家にも住めなくなる。しかし、世の中は当然だと言う。そう云う仕組みになっていると言う。欲張りな者たちは、自分たちに都合のいい仕組みをつくり、あとから生まれて来た者たちに押し付ける。仕組みは当然だと言う。

 世代間でも軋轢は絶えない。漠然と自由について考えるよりは、軋轢をひとつひとつ潰してゆくほうのが簡単かもしれない。