もう12月なかば

 午前11時まえ、晴天。本日の右籾の気温1~15度。朝方は靄が出るほどに寒い。さすが東北の玄関口と思える土地である。毎年冬が来ると思うが、東京とはちがう寒さだ。

 雑事に忙殺されて、あっ、と云うまに12月半ば過ぎである。日記もしばらく書けず、仕事らしいことも何も出来ていない。併し、この雑事、なかなか手応えのある雑事であり、私の人生にとって、なにか問題意識を提示するような重要なことであるかもしれない。

 年齢を重ねると、見えてくる景色がちがってくるらしいが、私も例外ではないようで、年相応に感受性に変化がみられる。近年では、とくに宗教的な事柄に関心がゆき、神社仏閣は勿論、その内容にも関心が向いている。関心は仏教であることが多いが、禅宗道元禅師が開祖である曹洞宗親鸞上人が開祖の浄土真宗にも関心が向いている。道元禅師は、仏はすべてに宿っていると云う教えであり、私にも仏が宿っているらしい。そして、その仏と出逢うことが悟りであると言う。だから、ひたすら座禅をせよ、と言う。私も、すこし座禅をしてみるが、未だに仏とは出逢っていない。坐りたりてないと思うが、これからだと思う。浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えると救われる、と云う教えである。「他力本願」を旨として、自力で解決はできないとする。私の解釈は、上記の通りであるが、間違っているかもしれない。併し、私にはこのようにしか受け取れていない。

 浄土真宗は、この宗派の僧侶になっても剃髪せず、妻帯もできるとする。思うに、万民に実行できない宗教は辛いだけのものになる。綱渡は誰にでも出来るものではない。浄土真宗は実現可能な宗教のように感じる。

 神道にも、同様なものを感じている。神社に参拝すると、願いが叶うという。神社に行くだけで願いが叶うという宗教は素晴らしいものである。宗教に修行はいらないのであった。険峻な山岳を行脚せずとも、滝行で寒い思いをしなくとも、満願は成就する。われわれ凡人は、普通に生活して、そして、金銭を得て、それを奉納すればよかった。奉納することが修行になり、満願成就するのであった。

 年を重ねると、くどくなる。我説に固執して、他を顧みず、あまつさえ排斥すらする。私もその例にもれない。この辺で筆を擱く。