在日という生き方

 午後4時半ごろ、曇天。気温28度。台風一過、ようやく涼しくなった。このぶんなら近いうちに鱒釣行も難なくできそうである。

 最近は、テレビのワイドショーなどで嫌韓報道が喧しいそうである。私はテレビを見ないが、ネット記事にはそうある。そして、いろいろな意見が言われ、反日反韓の議論がにぎやかだ。

 そのなかに在日韓国3世のひとが日韓対立について意見を書いていた。しごくまっとうな意見で、どちらも争わず、冷静に対応しましょうといったもので、非のないものであった。

 たいへん物静かな言い方であったが、すこし気になったのは、結局韓国人は日本人に対して本当の敬意は持てないが、利用できる部分だけはさせて頂くといったものが透けて感じられた。それは韓国人の意識の根底には、韓国併合を非合法と断定した被害者意識とその優位性があり、日本にたいして永遠に謝罪、賠償をもとめるもの、もとめられると云う意識が日本にたいして敬意を持って接することができない原因になっていると思われる。

 相手を利用する場合でも、遠慮しながら敬意や憧れを持ってするものだが、韓国人のやり方は、外側は捨てて、中身だけを頂くむごさがあり、それを韓国人は気づかないのか、気づこうとしないのか判らないが、無惨さが気になった。遠慮のなさは被害者意識がそうさせるのかもしれない。

 これは韓国人だけに限らず古代儒教の呪縛から逃れられていない中国人にも同様のむごさ、無惨さが感じられ辟易するが、かれらにはデリカシーがなく、それを苦にもせず平然としているところがある。日本人としては、それは耐えられない国民性であり、民族性である。もっとも、西洋人にしても、握手や抱擁をあたりまえに求められるのも閉口するが、そういう国民性、民族性のちがいは克服したり同化できるものではなく、距離をおいて静観するしかないものだろう。

 もうひとつ。在日の人たちは日本に帰化することを考えながら日本に留まり、いつの日か日本人になろうとするのか、また日本人になりたいと思っているのか、と云う点である。いつまで在日〇世を続けるのか、と云う点である。たとえば在日5世はありえるのか、または在日何世までならいいのか。在日10世、在日20世というのはありえるのか、と云うことである。現在、在日韓国人が日本国内に10万人いたとして、将来50万人、100万人になったとき、韓国人でありながら日本にいる理由はなんだろうかと思う。日本で生まれ、日本で育ち、日本語を話し、日本に暮しつづけながら韓国人であると云う人格はありえるのだろうか。これは、なにかたいへんな背反的なことをしているのではないだろうかと思う。しかも反日感情を持ちながら日本で生きているとしたら、どんな人格の人物になっているのだろうか。私は、敬意を持てない国に留まるべきではないと思う。

 そして、日本にある朝鮮学校の存在である。これは、どうしても理解しがたいものがある。朝鮮人にたいして日本が加害国であったことを理由に、日本国内に敵対する北朝鮮を賛美する学校があることが理解できない。日本政府もこれを許している根拠を明確に示すべきである。

 つまり、日本は戦後、北朝鮮、韓国にたいして加害者としての意識のみで対応していた結果、とても歪な状況になってしまっている。これらを国際意識において解決してゆく時期に来ていると思われる。やはり、朝鮮半島問題は対岸の火事とせずに一緒に火消をしてゆかないといけない。朝鮮半島に特化した専門部署を設けて対応するべきであろう。