右籾の雪景色

 午前8時半、雪降り。気温0~11度。寒い。とても、寒い。窓外は、雪が降っている。雪は、やがて小雨になってゆく。雪と雨が降っている。

 今年の右籾の雪降りは二回目である。一度目は、ちょっと吹雪いて、すぐにやんだ。今回の雪は積もっている。

 右に在るのが隣家で、手前に映っている二本の樹は、左から柘植、そして、柿の木である。柿の木は葉が落ちて淋しい感じである。奥に広がる景色は隣家の畑である。私の住む右籾は村落のような感じで、畑のなかに家屋が点在している。静かな所である。

謎の通信

 午前11時、曇天。気温2~9度。寒い。台所にいても、寒くて立っておられず防寒着をきこむ。

 我家の電卓から、謎の通信が届いた。

 「FF」と「8」は読めるが、あとは判らない。たぶん、宇宙からの交信だろう。電卓は、CAボタンを押すと、普通に計算ができるので、異状なし、とする。

 世の中、つまらない出来事が多いから、せめて、このときぐらいは妄想を逞しくして遊びたいものである。理不尽なこと、不公正、不平不満な出来事は枚挙にいとまがない。是正したくとも、できない。我慢するしかない。ひたすら我慢して、その先にあるのは空虚だろうと思う。併し、今は耐えて遣り過ごすしかない。

久しぶりに版画を印刷

 午後1時半ごろ、晴天。本日の右籾の気温5~17度。三月上旬にしては暖かい昼である。ありがたい。

 随分ひさしぶりに版画を刷った。エッチングプレス機を使用して、プラ版にインクを載せて刷ったが、やはり、エッチングプレス機を使って印刷をすると、しっかり仕事をした気がしてくる。まあ、印刷の仕上がりは普段どおりであるが、印刷するまでの仕度と、印刷後の片付けは並大抵ではない。一枚刷るのにプレス機を手で廻す時間は10秒も掛からない。あっと云うまに終ってしまう。

 今回の版画の版は、半年以上まえに作ったものを先程印刷した。まだ、用紙も乾いておらず、手彩色もしていない。これから、やってゆく。そして、この版画は、ドライポイント版の下に木版の色版を重ね刷りしたいと思っている。

時事放談・新風到来!

 午後5時まえ、曇天。本日の右籾の気温2~11度。早朝でも、わりあい暖かく感じる。

 昨今、ネット記事を読み流していると、気になる記事に出逢うことがある。そのうちのひとつに、「作文花丸事件」があった。奈良県の小学生女児が書いたイジメを苦にした作文に担任教師が花丸を書いたと云う事件である。教師の真意は不明であるが、イジメを訴えている作文に大きな花丸を書くと云うのは如何なものであろうか。女児の両親は学校に掛け合い、うまくゆかず、市に掛け合った。結果、市は「重大事態に認定」という判定を出した。そして、両親は、学校側の対応に不信感を抱いて損害賠償請求の訴訟に発展している。

 また、もうひとつは、大阪府の小学生女児が熱中症になったと云う事件である。事件は、遠足のときに発生した。事件を起こしたのは女児生徒の担任教師で、不可解な対応により女児は熱中症になった。女児の母親は、女児の体力不足を懸念して、事前に遠足に持参させた水筒のお茶がなくなり次第、教師に新たなお茶を買い与えるように、お金を持たせて依頼していた。併し、教師は新たなお茶を与えることをせずに、また女児が母親に連絡を取ってほしい旨を教師に依頼するも、教師は連絡をしなかった。母親は、学校側の対応に不信感を抱き、市を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。

 この二つの事件は、些細と言えば、些細である。併し、旧態依然とした教育現場の、職場の仲間を守るだけに終始する学校のあり方に疑問を突きつける上で重要な出来事であると考える。私は、これを軽はずみな問題提起とはしない。

 小学校など教育現場だけに限らず、公的機関、病院、警察など新風が必要な現場は多数ある。ここは敢えて、昭和的な雰囲気は駆逐してゆくが賢明としたい。昭和的感性の者たちは消えゆく者たちである。私も、その一人にならぬようにしたい。

コロナワクチンについて

 午前10時半、曇天。本日の右籾の気温2~8度。冬らしい寒さが戻っている。終日、エアコンの暖房なしでは居られない。しかも、先日の真夏日到来で花粉の飛散が始まったようで、寒風のなか花粉症の症状も出て、なにやら訳の判らぬ躰具合になっている。

 コロナ禍も3年以上の時間が流れ、今は第10波の終焉を迎えようとしている。コロナ禍当初は、コロナワクチンを6回打つと死ぬ、などと都市伝説めいた風説がながれたが、たしかに6回打つと、頭脳が死んだようになっている気もする。私はコロナワクチンを2回打って、打った直後に副反応らしき強い反応が出たので、2回打って終わりにしたが、6回打っている人たちは、どうも様子がおかしいようである。具体的に何がと、はっきり指摘できないが、ただなんとなく変である。

 たとえば、人と話をする場合、ふつうは伝えることを事前に頭のなかで組み立てて、それから人に話しをするものだが、6回打った人たちは、事前に頭のなかで話しを組み立てることができず、組み上がっていないまま人に話をする。すると、話を聞くほうは、話をする人の喋る言葉がバラバラになったまま到来し、その言葉たちを、たぶん、そうだろうと推測しながら組み立てていかなければならない。勿論、一度聞いただけでは判らないので、何度か聞いて話の内容を組み上げる。それでも、しっかりと把握できない。

 それに、厄介なのは、話をする人にもプライドがあって、相手に話がうまく伝わらないことへの苛立ちと、話を汲み取ろうとしない他人への失望がでる。それに、自分の頭脳が衰えていることへの不安と焦燥もあり、ともすると相手にたいして敵意すら芽生えることもある。

 公的にコロナワクチンの頭脳にたいする副反応について調査がされているのか、どうか。これから手を打ってゆかないと社会の基本的な部分が崩壊してゆくような気もする。