土浦市の「シークセール」で展覧会

 午後5時、晴天。気温-3~7度。早朝は、右籾の路面も凍る寒さである。風もつよく、寒い。耳当てのない耳は、ちぎれてしまうのでは、と思うぐらいに寒い。瞬間的災害級寒波である。

 土浦のシークセール(土浦市冨士崎)で展覧会をしている。会期は2024年1月14日~2月12日である。お近くにお立ち寄りのおりは、お越しください。

 

コロナ後の世界

 午後1時まえ、曇天。本日の右籾の気温0~9度。右籾も、冬らしい気温で、寒い。台所に立っただけでも、しっかりと冬を感じられる。

 最近は、私は他人と接することが多く、人々がコロナの後遺症に罹患していることを実感している。後遺症は、おもに知能に関する点で、多数の人々に「頭脳の霧」症状があると思っている。もっとも、これは人々にもともと「頭脳の霧」があったのか、それともコロナ罹患後もしくはコロナワクチン接種後に後遺症が出ているのか判然としないが、兎に角、顕著な症状が出ていると実感している。症状は、男性にも女性にもあるが、とくに女性の症状が強く出ている気がする。

 或る女性のひとりは、電話での会話が成立していない。こちらに伝える内容が曖昧で、女性が受けた感情の話をしてくる。私は或る場所で電話の取次ぎをしているが、女性は或る人物に電話をしたが繋がらず、或る人物の留守番電話に女性が電話をした旨が記録されているから、きっと或る人物から電話が掛ってくるだろうとのことで、そのことを私に伝えてきたのであった。私は、掛かって来た電話を転送することをしていたが、或る人物が私のところへ電話して女性へ転送すればよいだけで、女性が事前に私に或る人物への電話をした件を伝えるのは意味がなかった。

 また或る女性は、新たな突発的な業務の負担から慌てて私のところへ来たが、これも意味がなかった。私は或る所で出入管理をしていたが、別の個所で出入管理の必要が発生したが、その負担から慌てて相談だか、四方山話に来たが、何しに来たのか意味不明であった。不安は、おもに外部に接しているオートロック式の扉らしく、それが自動に施錠され、外部から開かなくなる不便にたいして、なにか妙案はないかと訊いてきたが、閉まる閂にガムテープでも貼ってみたらと言っておいた。

 また或る別の女性は、・・・書くときりがないほどである。いくらでも「頭脳の霧」症状の人はいる。症状のない人のほうが少ない気がする。

 もっとも、私もコロナワクチンを二度打って「頭脳の霧」症状を実感しているので、これらのことも、すべて私から見える世界の話で、私の言うことも霧の中かもしれない。 

新年には、なった。

 午后0時まえ、晴天。右籾の気温-2~10度。右籾の冬は、やはり寒い。東北の玄関口の感じである。明日の朝も寒い予報である。春が待ち遠しい。

 今年は、新年早々能登地方が地震にみまわれて散々である。今なお被災地では復旧の目途は立たなく、被災された方々にはお見舞い申し上げる。

 なにか出来ることはないかと思案したが、私は遠方に居て、しかも非力故に、ただ祈ることしかできない。私たちに出来ることは、慌てず、淡々と、日常をこなしてゆく以外にないのかもしれない。それが被災地を応援することになるのだと思う。

 私に出来ることは版画ぐらいしかない。だから、版画を彫ってみた。

 上掲の画像では半分ぐらいの彫りであるが、実際の版画は、もう手刷り印刷も済み、インクを乾かしている。あとは手彩色を施して完成である。

 版画は、日輪を目指して昇る龍の図である。今年は辰年であり、また私の干支も辰であるので彫ってみた。今年も、登り龍のように、元気に一年を過ごしたいと念じている。特に、今年は無事に過ごせることの有難さを感じている。

大晦日の前日

 午後7時半まえ、曇天。気温0~14度。右籾の天候は、大晦日、元旦にむかって次第に崩れてゆくらしい。

 今日の昼下がりは、庭の芝刈りをした。先日から芝刈りは徐々にしていたが、刈り残しの芝をすべて刈った。どうにか気分は大晦日を迎えるに相応しい心持ちになった。

 去年は何事もなかった。一昨年も何事もなかった。そして、今年も特段の変化はない。今年の夏の猛暑に、自動車学校へ行き、原付免許を取得したぐらいで、他には何もない。しかも免許は取ったが原付バイクは所有していない。今はまだ、原付バイクが必要な状況にないから所有していないとも言えたが、結局、原付バイクにしろ自動車にしろ、積極的に使用したいと思わないところがあるらしい。

 私は偏屈なのかもしれない。便利を便利と思わず、何か他人に操られているような、恣意的に動かされているような妄想が先にくる。原付バイクの免許を取得するのに、大層勉強をしたが、その過程で、道路が人々にとって有益に作られていないのではと云う疑念を持つに至った。

 道路は、一度自動車で走り出すと、もうどこかの駐車場に行き着くまで停車することはできない。わき目もふらずに駐車場に行かねばならない。人々は自動車でドライブに行くと言う。併し、運転手は、運転中は景色を楽しむことはできず、安全運転をせねばならない。原付バイクも同様である。道路で停車したとしても、5分間まで停車できるが、その後は違反になる。第一、道路を疾走する車をよこにして安全に停車することはできない。やはり、自動車と同様に駐車場まで行く以外にない。

 道路は規制だらけである。道路は楽しくない。もっとも、道路は経済活動を潤滑にするためにあるだけで、人々が楽しむためには出来ていない。故に私は原付バイクの所有に逡巡している。道路に出ることになると、ありとあらゆる場面で制約を受け、嫌な思いをするにちがいない。その点、今のところは自転車ならば嫌な思いもそれほど感じていない。たしかに、自転車が走る歩道には段差があり、走行に難儀するが、自動車、原付バイクに比べて自由度が高い。

 また、つまらないことを書いた。来年は、つまらないことを書くことを控えたい。

もう12月なかば

 午前11時まえ、晴天。本日の右籾の気温1~15度。朝方は靄が出るほどに寒い。さすが東北の玄関口と思える土地である。毎年冬が来ると思うが、東京とはちがう寒さだ。

 雑事に忙殺されて、あっ、と云うまに12月半ば過ぎである。日記もしばらく書けず、仕事らしいことも何も出来ていない。併し、この雑事、なかなか手応えのある雑事であり、私の人生にとって、なにか問題意識を提示するような重要なことであるかもしれない。

 年齢を重ねると、見えてくる景色がちがってくるらしいが、私も例外ではないようで、年相応に感受性に変化がみられる。近年では、とくに宗教的な事柄に関心がゆき、神社仏閣は勿論、その内容にも関心が向いている。関心は仏教であることが多いが、禅宗道元禅師が開祖である曹洞宗親鸞上人が開祖の浄土真宗にも関心が向いている。道元禅師は、仏はすべてに宿っていると云う教えであり、私にも仏が宿っているらしい。そして、その仏と出逢うことが悟りであると言う。だから、ひたすら座禅をせよ、と言う。私も、すこし座禅をしてみるが、未だに仏とは出逢っていない。坐りたりてないと思うが、これからだと思う。浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えると救われる、と云う教えである。「他力本願」を旨として、自力で解決はできないとする。私の解釈は、上記の通りであるが、間違っているかもしれない。併し、私にはこのようにしか受け取れていない。

 浄土真宗は、この宗派の僧侶になっても剃髪せず、妻帯もできるとする。思うに、万民に実行できない宗教は辛いだけのものになる。綱渡は誰にでも出来るものではない。浄土真宗は実現可能な宗教のように感じる。

 神道にも、同様なものを感じている。神社に参拝すると、願いが叶うという。神社に行くだけで願いが叶うという宗教は素晴らしいものである。宗教に修行はいらないのであった。険峻な山岳を行脚せずとも、滝行で寒い思いをしなくとも、満願は成就する。われわれ凡人は、普通に生活して、そして、金銭を得て、それを奉納すればよかった。奉納することが修行になり、満願成就するのであった。

 年を重ねると、くどくなる。我説に固執して、他を顧みず、あまつさえ排斥すらする。私もその例にもれない。この辺で筆を擱く。