羅生門に雨

 午後4時半すぎ、曇天。気温摂氏14度。まあまあ暖かい。午後3時より始めた版画の摺りは、午後4時半前でようやく終わった。羅生門の建物の版画に雨版を2版重ね刷りするのだが、この作業だけで、これだけ掛ってしまう。加齢による体力低下で作業速度が極端に落ちているが、最早それだけの原因とも思われない。

羅生門に雨を降らせることができた。この雨版だけで、実に3ヶ月以上掛った計算である。
 この版画の上に、「ザー」と云うオノマトペの文字を木版で刷ったものを加えてゆく。版下原稿では漫画のページらしくなるが、いまのところ木版画そのものである。
  話はかわり、時事の話題であるが、道徳の教科書検定で、教科書にある「にちようびのさんぽみち」という教材で登場する「パン屋」を「和菓子屋」に変え、「大すき、わたしたちの町」と題して町を探検する話題で、アスレチックの遊具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に差し替えたという。このニュースを聞いて、私は芥川龍之介の「侏儒の言葉」にある〔道徳は常に古着である〕を思いだした。
 和菓子や和楽器は、日本に出現した当初は目新しく、また外来のものがそのまま定着したり、変化したものが定着した物もあったはずだ。無理に日本の伝統と言い、国粋的に国民を煽る姿勢には疑問を感じる。日本主義的な考え方はもともと日本の庶民には存在せず、生活のスタイルは常に流動的で他を受け入れ変化していった地域が日本と云う場所であったはずである。そして、庶民の要求にあわない物は廃れて当然であり、無理に流行らせたり保存しようとするのは愚の骨頂である。いつの時代でも庶民に無理をさせるのは為政者ばかりだ。
 伝統の変遷を印刷の場合で言うと、江戸時代は木版印刷であり、幕末になり一時期銅版(エッチング)印刷が出てきて、明治時代になると活版印刷にかわった。活版印刷から戦後しばらくしてからオフセット印刷が主流になった。そして、コピー印刷やパソコンでのプリンター印刷も出てきて簡易になった。今どき木版で新聞を刷ったり、会社の書類をつくったりはしないだろう。併し、ときとして趣味的に、一部の好事家が活版印刷を楽しんだりしている。もっとも銅版印刷にしても木版印刷にしても絵画として制作され愛されている。それは、それだけで結構であり、とくに行政が無理に推薦したり押し付けたりすることはないと思う。