選挙のあと

 16日、午前4時すぎ、曇天。気温摂氏5度。先日、庭に出していたゴムの鉢を部屋のなかに入れた。このゴムの木は数年前に500円で買った、自転車の前カゴに載るほどの小さなものであったが、今では大人の背丈ほどに育ち、部屋のなかで存在感を出している。
 14日は、衆議院選挙の投票にマキコと共に近くの第9小学校へ行った。この小学校には、何かの選挙のたびに行ってきたが、この土地に20年も住んでいると、今まで何度行ったか判らぬぐらい頻繁に行っている。であるので、私が40年近くまえに卒業した母校の小学校より馴染み深い。尤も、馴染み深いと云っても、私たちの場合は校門とそれに続く通路と運動場、それから投票場になっている体育館だけに馴染みがあるだけだが、それでもこの小学校の記憶は母校の記憶にくらべて新しく鮮明であるので私のなかでは優勢である。
 近所の図書館へ行き、夏目漱石の「硝子戸の中」を借り受けて来て頁を繰っていると、こんな事も真似して書いてみたくなるらしい。
 選挙のあとは淋しいものである。併し、そうは言っても、私が今回選挙に出馬したわけではない。また誰かの選挙の手伝いをしたわけでもない。また選挙について寝食を忘れて没頭したわけでもないが、毎回なにかを期待して、そして、叶わないで来ている。私にとって選挙とは人生の、生活のなかで淋しいものの代表のようなものになっている。そのわり切れない淋しさを毎回確認する作業が選挙であるらしい。
 今回の選挙では落選し悲哀を味わっている人たちがたくさん居るが、私が選挙で感じている悲哀とはちがうのかもしれない。