東京国立博物館へゆく

 午後2時すぎ、晴天。併し、寒い日である。エアコンの暖房がないと部屋のなかとは言っても、まるで冷蔵庫のなかにいるような心地である。
 昨日も寒い一日であったが、25日はマキコとふたりで、平日の東京国立博物館へ出掛けて行った。今回は、年来の念願であった考古資料見学である。上野には展覧会などで、ときおり出掛けることはあったが、考古資料の見学はついつい後回しになって、昨日の見学と云うことになった。私としては35年ほどまえに一度、それから数年後に一回と見学はしていたが、私自身としても30年ぶりぐらいのことである。だから、ひとえに懐かしい。再見といってもほとんど初めて見る気分であった。
 平成館のなかで順路をまちがえて出口付近から見はじめると、いきなり国分寺国分尼寺の瓦などがガラスケースの向こう側に整然と陳列されていて圧巻であった。もともと私は骨董趣味があるので、古色蒼然としたものや埃っぽり物が大好きで、この丸瓦などは持って帰りたいほど魅力的に映る。そして、そのケースの対面のケースには、これもいきなりといった感じで和同開珎や萬年通宝などの皇朝十二銭が整然と並べられ、それから衝撃的に開基勝宝が、まさに燦然と輝いて8枚並べられていた。これは感動的である。文字だけでは感動を伝えることはできないが、開基勝宝は純度の高い金貨で直径25ミリほどの円形の真ん中に四角い穴があいている。寛永通宝みたいな形である。古銭ファンとしてはたまらない陳列である。そして、それから順路を遡るように見学してゆくと、長屋王宛の木簡があり、丸い大きな陶硯が目に留まる。この丸い陶硯は私が、これも年来渇望していた物であるが、博物館の陳列棚のなかでは致し方ない。手ごろな実用的なサイズの物を古道具屋などで探しているが、未だ入手出来ていない。古代墨の復元品はオークションなどで出品されているのを見ているが、陶硯のほうはオークションなどでは出品はなく、都内の有名骨董店でも割れて復元された高価な物しかない。仕方がないので、自分で、須恵器のような陶硯を作るしかないと思う。併し、この作業はそう簡単にはいかないと思う。
 あらぬ方角の雑念にとらわれながら陳列ケースを巡る。梵字一字が、大きく上部に陰刻された1メートル程の縦長の薄い石版が幾つも並んでいる。これは墓石のようであるが、しかと判らない。説明が書いてないのである。それらの石板のよこに五輪塔が展示されているところを見ると、やはり墓石関係であろうか。たしかに梵字の上に2本横線が陰刻されている。
 陳列ケースは、また時代を遡り、今度は江戸時代である。徳川家、前田家、蜂須賀家、山之内家などの屋敷の瓦がならんでいる。これは、私にとっては、まだまだ時代が新しく感じられて生々しく、興味の範囲外であった。そして、よこのケースに行くと、今度は意外にも小判と大判の展示である。しかも慶長小判、大判金である。時価にすると大判だけで3500万円は下らない代物である。もっとも、先程の開基勝宝の金銭のほうが、8枚もあり、はるかに貴重であり、時価もつけられぬほど高価であるが。・・・いささか考古資料を見学する心持として頂けぬところである。・・・次の小さな陳列ケースにゆくと、今度は汚い小さな徳利が2本だけの展示である。なんでも、この平成博物館の土地から出土したそうで、展示品名は「貧乏徳利2本」である。暫時、マキコとふたりして顔を見合わせて笑った。大判の次が貧乏徳利である。黄金の慶長大判金も、泥をこねて作った徳利も、陳列ケースに入ってしまえばすべて一緒と云うところであろうか。
 貧乏徳利のケースを過ぎると、入口になり、国宝の埴輪「挂甲の武人」(群馬県出土、高さ133センチ)が出迎えてくれる。以前にも見たはずであったが、やはり初めて見るように感動である。歴史の教科書に掲載されている実物を実見するのは気持ちがいい。東京に住んでいてよかったと、また手軽にトーハクに来られる東京在住を誇らしく実感する瞬間である。
 考古資料展見学のやり直しの気分になって、今度は旧石器時代の遺物の見学である。ここのあたりの時代は、私にとっても馴染み深く、その昔、史学科進学を断念した経緯もあり、いささか旧知のひとに逢ったような、果たせぬ約束を思い出したようなばつのわるい気持ちになる。また併し、一途に懐かしい思いはかわらない。・・・石器などをマキコに説明してゆき、縄文土器を草創期、早期、前期、中期と見てめぐり、どうも縄文土器の展示品が不十分であることに気がついた。特に中期の土器は、もっと派手はでしい装飾が縄文土器中期の特徴であるのに充分ではない。国立博物館でありながら、この縄文時代の展示品に関しては品薄の感がある。長野県茅野市にある尖石遺跡縄文考古館では充実した縄文中期の出土品が見学できる。