映画を見る日々

 午前2時半前、晴天。気温摂氏15度。わりあい涼しい。日中にくらべて、深夜は寒いのかもしれない。また、ヘンな生活パターンが続いている。午前1時過ぎに起床して、それから朝食を摂る。超朝型の生活である。
 深夜のテレビを見ていると、ユダヤ人の受難の放送があり、そのなかで収容所で虐殺された人々の所有だったバイオリンが取り上げられていた。バイオリンを修理する現代のユダヤ人の職人が映り、バイオリンを解体修理すると、バイオリンの上側の板の裏から、戦争当時の年号とハイル、ヒトラーのドイツ語、そして、ハーケンクロイツ(卍)の鉛筆書きが出てきた。これは、その当時バイオリンの修理をしたドイツ人職人が敵意と悪意で書き残したものだと推測していた。修理をしたバイオリンを受け取ったユダヤ人は悪意の落書きを知らずにバイオリンを弾いていたことだろう。
 収容所では、ガス室までの道程にユダヤ人が弾く陽気なバイオリンの音楽がながれていたという。連れてこられたユダヤ人たちはその音楽のなかガス室にむかっていった。ベルリンのヒトラー終焉の地は、今はまったく痕跡がなくなっている。
 これらの10分間ぐらいの映像を見て、どっと疲れた。2時間以上の戦争映画より、重く感じるものがある。戦争犯罪。戦争は犯罪行為である。戦争は殺人。戦争は破壊しかない。殺人は悪いとわかっているのに何故か戦争ならいいんじゃないかとなっている。そう云うことが頭によぎる。互いのちがいを認め合い、許しあう以外に生きる道はないのに、何故か人を殺してしまう。殺してもいいと錯覚してしまう。何故だろうか。結局、人間は慾を捨てなければ、人を殺すことになるのだろう。
 先日、映画「ヒトラーの最期の12日間」を見た。人は、いつかは死ぬものである。ヒトラーも例外ではない。神格化されていても、死ぬのである。どうせ人間淋しく死ぬ身なれば、生きているあいだ我を捨て、慾を捨て、仲よくできないものだろうか。