カタール サッカーW杯

 午後0時半、雨天。細かい、冷たい雨が降っている。土浦市は日中でも気温が14度しか上がらない予報である。だんだん秋が深まっている。

 カタールでのサッカーワールドカップ日本対ドイツ戦をテレビで見た。試合の序盤は、完全にドイツに試合をリードされて、見ていられず、一旦テレビを消した。ネットの速報記事でドイツに1点入れられているところを見て、やはり、ダメかと云う気分になった。試合を見ていたとき、どうやっても勝てない試合のようで、この試合は負けるだろうと思っていた。後半戦に入って、堂安津選手が途中出場して、しばらくてシュートを決めた。ボールはゴールネットを揺らしていたが、どうせ、またオフサイドの判定をもらい、無得点だろうと思った。併し、しばらく経ってもオフサイドの声は出ずに得点となった。同点である。信じられない気持ちでいると、今度は浅野選手がドイツ選手に腕を掴まれ、体勢を崩しながらもシュートを決めた。併し、内心またオフサイドだろうと思っていると、このシュートも得点となった。日本は逆転していた。信じられないことである。どう考えても、体格差、技量の点、ドイツの方が優れているようにしか感じられなかった。29年まえのドーハの悲劇が、今度はドイツの番になった格好であった。

 気分よく過ごしていると、どうしても目立ちたい者は現れて、気分を害する。日本対ドイツ戦の試合を見ていた日本人観客が客席のゴミ拾いをしていた記事に国際政治学者の舛添要一氏は異を唱えたのだ。日本人観客は世界標準を知らないと云う意見である。ゴミ拾いをすると、清掃員の仕事を奪うことになり、ゴミ拾いは迷惑であるということだ。併し、清掃員の経験のある私からすると、ゴミ拾いをされたからといって、清掃の仕事が無くなるとは思えないのである。清掃仕事はゴミ拾いだけではなく、会場の掃き掃除、座席等の拭き掃除もあり、それにトイレ掃除のことを忘れているようである。ゴミ拾いは美徳であるが、それが清掃のすべてではなく、清掃のはじまりに過ぎない。日本人観客が清掃員になり代わって、すべての清掃業務をやったのなら、たしかに清掃員の仕事を奪うことになるかもしれないが、併し、それでも清掃員にはなれないと思う。清掃員は、清掃員しか立ち入れない所へ行き、トイレットペーパーや清掃道具を持ってこられるが日本人観客はトイレットペーパーの補充もできないし、清掃道具を使うことはできないからである。つまり、清掃員は仕事を失わないわけである。

 他の人の話では、この会場の清掃員はボランティアであるらしい。もしボランティアであるならば、無報酬の奉仕活動であるので、日本人観客のゴミ拾いもボランティア精神の発露として考えれば、なんらゴミ拾いの精神に矛盾はないようである。

 舛添要一氏は、なにを言おうとしているのか不明である。差別のある社会、身分制度に縛られている社会を維持したいのか、それとも、目立ちたいだけなのか。愚かしいかぎりである。以前は舌鋒鋭く、テレビ番組に出演しては敬意を集めていたようであるが、今では、その凋落ぶりは目を覆うばかりである。

 人間は、70歳を過ぎたら使用期限が切れて人生は終わると、或る医者は言っていた。これは医学的な見地であり、たくさんの患者を診てきた医者の意見だろうと思う。70歳を過ぎると、身体はガタがきて、動かなくなり、頭脳はハッキリせずに訳のわからないことを言い出す。人生の使用期限が切れると、あとは老耄に任せるしかないという悲哀と諦めを言っているのだと思う。世の中は、なんと多くの者たちが、70歳を過ぎて、晩節を穢していることであろうか。