一日のはじまりは

 午前11時半まえ、雨天。気温3度ほど。雨に混ざって雪も降っている。今年一番の冷え込みである。

 昨日は、半日かけて、ゆっくりと写経をした。薄い和紙に、鉛筆で薄く枠線を描き、細い筆で墨書した。いくら書いても、うまく書けない。併し、一所懸命書いた。父の三回忌法要は今年二月の末である。今回の法要は、いよいよ身内で、しかもマキコとふたりだけで自宅でおこなうことにした。自宅法要は諸般の事情によるが、だいたい宗教行事はお仕着せの、他人任せのことが多い。宗教は心の問題であるので、形にとらわれるのは本末転倒であろう。

 写経をすると、いろいろと「もの」が見えてくる。まず、筆を執り、ゆっくりと、丁寧に、ひと文字を書くと、何故、いま私は文字を書いているのか、の自問が発生する。写経のため、であるが、では何故、写経をしているのか、である。写経は三回忌法要を寺でおこなえない為の代替行為であるが、今までの、寺での法要は、写経ひと文字に匹敵するだけの法要はできていたのか、と云うことである。お布施と云うことで、お金を払えば法要ができていたと思うのはまちがいである。

 

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 私の、一日のはじまりは、一杯のコーヒーからはじまる。このカップは、三島の実家のサイドボードのなかに大切にしまわれていた来客用のカップである。今では父の遺品のようになってしまったが、毎日愛用している。寺の僧侶は言っていた。数年に一度でも、故人を思い出すのが法要になるのだと。併し、私のところでは、数年どころか、毎日のように故人を偲んでいる。良いところも、わるいところも思い出している。法要は、お金を出すことではないと思っている。