ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの立場

 午後5時すぎ、曇天。気温摂氏6度。外出すると、やはり寒い。部屋のなかでは、エアコンの暖房を30度設定、強風にしているが、寒い。隙間風のせいかもしれない。
 寒い部屋のなかで、ひとり、ぽつんと座して、ふと、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの立場について考えてみる。彼の、現在の美術的価値、意味と云うことではなくて、彼の生前での立場についてである。巷間伝えるところによる、貧窮、孤独、低評価、精神病罹患など、芳しくない立場についてである。
 私の置かれている立場についても考える。貧窮、低評価はおなじである。併し、表面的にはわたしは孤独ではない。精神病も罹患していないと思っているが、五十歩百歩といったところか。すくなくとも加齢による精神状態の変化、筋肉が衰えるのとおなじで、脳髄も衰えているのを実感している。精神病でなくとも不安はある。衰えの内容はおもに、繰り返しや物忘れ、そして、執着である。思い込むと盲進となる。しばらくすると、はたと気がつき、執着がなくなり元の精神状態になる。
 ヴァン・ゴッホは自分の絵画の低評価に悩んでいたと思う。実弟から援助を受けての生活は、どんなに鈍感な人物でも忸怩たる思いがあるはずである。ヴァン・ゴッホのような感受性が豊かで傷つきやすい神経ではたまらなかったと思う。事実、社会生活のなかで追い詰められ自殺に落とされていった。即死ではないので、尚更哀れである。
 これは私の憶測だが、弟のテオは、兄の仕事を認め、世間に堂々と発表すればよかったと思う。テオは画商の仕事をしていたので、適任であったはずである。しかし、積極的な絵画の発表、販売をしなかった。そのことが、どれほど兄の心を傷つけ、そして、死に追いやったことか。
 併し、弟テオの感受性も兄に劣らなかった。兄の死を追うように半年後、自分も精神病院で死んでしまった。ヴァン・ゴッホ兄弟の悲劇は、兄の仕事を自信をもって認められなかった弟の遠慮にあった。
 仕事を続けてゆく上でなにより大切なことは、自信である。この自信はなかなか身裡に留まってくれない。
 ・・・はたと気がつく。このようなことを過去にも書いた気がする。