黄泉の人

 午後0時半すぎ、晴天。東京は、早朝の雨があがって青空になった。気温も21度になるそうだ。今日は暖かい。
 2月23日、父が泉下の人となり、いよいよ私は天涯孤独の身の上になった。もっとも私は、父とは相性がわるく、父が若く元気な頃も特別の庇護をうけたわけではないので、格別の変化はない。ただ三島に住居拠点を失って伊豆地方での活動ができにくくなった。
 マイナス地点から0地点への到達は、まだまだ時間が掛りそうである。今は三島の借家を畳んで東京と大分へと荷物を搬送している。荷物は、ゆうパックの120サイズ前後の大きさの箱やら紙包にこしらえている。なかには炬燵のように大きい物や釣竿のように細長い物もある。ヤマト便で搬送すると宅急便の半額ぐらいで送れるので経済的である。以前、震災のときにヤマト便のことを知らずに宅配便で送ったら随分と送料が掛って閉口したことがあった。やはり、なんでも知らないと云うことは損をすることになる。併し、また、なんでも経済的なことばかり腐心していると、たいせつなことを見落としがちにもなる。
 父は、無事に、本人の望む通りに近所の人たちに見送られ、僧侶の読経のなか昇天して、納骨された。墓に入ると云う昔ならば普通のことが現代では出来にくくなっている。併し、父は墓に入った。今は母と共に眠っている。
 父の出棺の際、葬儀業者の指示のもと会葬者の人々は棺に花を入れたが、私はその様子にひとしれず安堵していた。ほんとうにしっかりした葬儀ができている、と云う実感が胸中に湧き上がってきたからである。花をたむける人々は苦渋の表情や嗚咽を洩らしたりしていたが、私ひとり、ただ安堵の笑みが湧きあがって仕方なかった。たぶん微笑しているのは、私と父の、ふたりだけだったろうと思う。父は病気と格闘し、人生をまっとうし、私も父の晩年の伴走者として全力で自身を虚しくしてやってきた。たとえ父との相性がわるくとも、やるべきことは無理してでもやった。その結果、微笑がでたのである。涙は、父の闘病時に流しきって枯れていたのであった。
 それにしても、この度の半年以上に亘る怒涛の如き介護・片付け生活のなかでは、私のような馬齢をかさねた蕩児でも人々の善意にふれて心がうごいた。なかでもケアマネージャーの方、ヘルパー、訪問看護士の方々に接して「善意」はこの世に存在するのではないかと考えるようになった。善意は、勿論、無償のものを指す。職業のなかに、金銭関係をこえたものが確かにあった。実際に、私自身が父の軀を拭き、塗り薬をぬり、紙おむつを取り替えたりしていると、本物の善意の気持ちがないと作業をすることができない瞬間が出てくる。つまり作業が善意を要求してくるのである。好むと好まぬとに係りなく善意が必要になる。作業を継続することは善意が継続している状態である。
 社会生活をしいてるなかで人々に助けられた。今回は、そう云う実感がある。とくに三島市の「ふれあいさわやか回収」というゴミ回収には心底助けられた。それから市の粗大ごみ回収にも助けられた。また、料金は高額であるが便利屋の働きも見逃せない。借家の横に建てた六畳間ほどのプレハブ小屋の解体撤去は頭の痛い大問題であった。私の体力では、ひとりで解体し、残材をどこかに運ぶなど出来る相談ではなかった。車もなく、運転免許のない者に、こう云うお鉢がまわる不思議を感じたが、運命なのか宿命なのか、それとも前世からの因縁なのか知らないが、とにかく、困ったものであった。併し、実際、便利屋をたのんでみると、ほんとうに、あっ、と云うまに片付けてしまった。それは三時間程の作業であった。もう、跡形もない状態になっていた。ありがたい、と云う気持ちよりも淋しい気持ちが湧きあがってきたものだ。そのくらい手際がよかった。消しゴムで、消したみたいに物置小屋は消えていた。

 そして、家の中の冷蔵庫、ガスレンジ、電子レンジ、小型金庫、外の洗濯機を便利屋が5分も掛らず搬出すると、家の中の、45年間の生活感が消えた。

▲荷物が無くなり、ガランと生活感がなくなった。
 ヤマト便の業者が19個の箱の荷物を搬出すると、家の中は物ひとつない状態になり、淋しいと云うよりも、なにか私たちの、父と母の、家族の生活の死を実感した。とても、ひとりだけで、これを受けとめることはできないと思った。たぶん、私も父と共に死んだのだと思った。
 34年ほどまえに、三島の実家をはなれて、東京でひとり暮らしを始めたが、ほんとうの意味で実家から父から離れてはいなかったのだ。嗜好がちがい、感性がちがい、相性がわるかったが、私は家族を、母を、父を捨てなかった。血縁の繫がりとか、家の繫がりとかに係りなく、好悪をはなれて繋がっていた。
 今、父は地下に眠っている。母と共に。私と父、母は、今度は三島ではなく場所をかえて係ることになる。家庭生活ではなく宗教行事として年に一回の頻度で接する。