多摩川遊興

 午前1時半前、曇天。4月前の、早春の季節でも、深夜は、やはり寒い。

 3月23日は、立川近辺の多摩川に行って来た。これは、ある目的を持っていた立川ゆきであったが、目的は達成されず不完全燃焼のまま立川をあとにした。併し、多摩川を見ることができてよかった。多摩川散策は、実に27年ぶりで、それまでに何度も多摩川ゆきを考えていたが、来れずにいた。

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 小雨あがりの多摩川は、もの淋しい感じである。 

部屋の掃除

 午後5時すぎ、曇天。気温摂氏12度ほど。肌寒いが、掃除をするには丁度いい気温である。

 日記を更新しなくなって、ひと月ほどが経過した。なにか、こころの心棒がはずれた感じになっていた。父親の一周忌法要を済ませて半月以上が過ぎた。法要を済ませて、ひとつ肩の荷が降りた感じである。

 そして、今は部屋の片付けをしている。約25年ぶりの掃除である。

庭そうじ

 午後1時半すぎ、曇天。気温摂氏12度ほど。わりあい暖かい。

 年来の気懸りであった庭掃除に着手した。と、言っても10分ほど動いただけで疲れてしまい、小休止になる。そして、部屋のなかに戻って思案する。思えば25年も放置してあるので、すぐに、どうこうと云うことにはならない。

 庭掃除をはじめたのは、なにか身辺に変化の兆しがあるからであるが、具体的に、どう云うものか言いにくい。しいて言えば時間は確実に経過している、と云うことだろう。時間の経過は、こちらの意図とは別に変化をもたらし、変化をもとめてくる。

 1年後の自分の姿を想像すると、どちらの方向に行ったとしても、とてつもない姿になっている。それは楽しみのような不安のようなものである。

うらたじゅんさんの蕎麦猪口

 午後5時すぎ、曇天。気温摂氏5度ぐらい。買物で外に出ると、まるで冷蔵庫のなかのようで震えあがっている。

 アイパッドで検索していると、画面が意図しない画面に変り、訝しく思っていると、画面中央に「うらたじゅん」さんの名前があった。最近お逢いしていないので、懐かしいような気持ちで、名前のリンクをクリックしてみると、なんと訃報であった。2019年2月7日、逝去。64歳とあった。いったい、何のことか瞬時に理解できずに、しばらくすると悲しい気持ちが湧きあがってきた。

 うらたじゅんさんには、私はお世話になったと云う気持ちがつよい。あまり理解されない私の仕事を理解して、グループ展覧会へ参加を促してくださった。そして、うらたさんは永年闘病されていて、その生き方、仕事ぶりなど学ぶところが多いと感じていた。

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 上掲の画像のなかの磁器の蕎麦猪口は、うらたじゅんさんが絵付けをされたものである。随分以前にうらたじゅんさんの展覧会場で見つけ、購入したもので、いつでも私の本棚にあり、ときおり眺めては、うらたさんの仕事に思いを馳せていた。今は、ただ、うらたさんのご冥福を祈るばかりである。

 

エアーフィッシング

 午前11時すぎ、晴天。気温摂氏10度程。天気晴朗なれど風つよし。この頃は、木版漫画の冊子刊行もひと段落して、今は空白期間と云うか、お休みにしている。

 先日、釣り道具のルアー(疑似餌)の整理して、それを壁に掛けていたら、なにやら40年前の感覚が蘇ってきて、郷愁と云うのか懐古と云うのか、いまルアーを中心に釣り道具に熱中している。もっとも、ルアーのみに熱中しているのではなくてルアーフィッシングに熱中しているのであるが、今の時季はルアー釣りにとってはオフシーズンで、まだ寒いので春まで待たねばならない。で、あるから、釣りをしている空想、エアーでフィッシングをして熱中しているわけである。

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▲アブガルシアのルアーケースに入れたヘドン、ラパラのルアー。

 中学生時代に買えなかったアメリカ製、フィンランド製、スエーデン製の未使用品に近いルアーをヤフーオークションなどで買い集めている。あの頃は、日本製のオリムピックやダイワの、海外ルアーの安価なコピー品しか買えなかった。そのときの思いが、いま出ている。そして、アメリカ製のフェンウィックの釣竿を求め、リールはフランス製のガルシアミッチェル300を入手した。これらの釣り道具は今では時代遅れで、機能的にも劣っているが、併し、あのときの思いを叶えるには今の釣り道具では駄目である。あのときを、もう一度再現して、やり直さなくてはならない。

 それから、釣り場である。残念ながら東京都内では近くの有力なバス釣り場は限られていて、多摩川、荒川などは電車に乗って行かねばならない。もともと釣りなどは手軽に無料で出来るものと思っていたので、金が掛ると云うのは心外であった。併し、多少は、金が掛っても釣りをしてみたい気持ちがある。釣りは、魚とのやり取りと云うよりは、魚を取り巻く環境との対話である。釣れなくても自然のなかに居て気持ちが良くなれればいいのだろうと思う。